猫と犬と妻の記憶

[ 獣医師が教える! 飼うのも動物園に行くのにも役立つ&楽しくなる動物の話 ]

「昨日のことは一生忘れないから」
妻は朝から非常に怒っています。

僕の朝はいつも、妻が丁寧に煎れてくれるコーヒーで始まります。しかし、この日のカップの中身は麦茶でした。だいぶお怒りの様子。

僕のお弁当を見ると、娘のものより2品ほどおかずが少ない。食卓のテーブルでメールのチェックをしている僕に、「今までの人生で、あんなに頭にきたことはなかったは。一生忘れないからね」。再び怒りの言葉。

麦茶を飲みながら、妻に恐る恐る「トースト食べたいな」と言ってみました。妻はそそくさとキッチンに行き、袋に入ったままの食パンが目の前に置かれました。いつもは、僕が大好きなバターがたっぷりしみ込んだ、カリカリのトーストなのですが…。

「ごめんね、反省してます。もう二度としません」。妻に謝ります。
「あなたはいつも口ばっかり。ただ謝ればいいわけではないのよ」
「言葉ではなく物で謝りなさい」
「物で?」
「わからないの? 気持ちは“形”でちゃんと示してくれないとわからないの」
妻の言っていることがチンプンカンプンの僕に
「バッグよ。秋用の!」
バッグが映し出されたスマホの画面が、僕の前に差し出されました。

その様子を見ていた高校生の娘が、「ところでお母さん、なんでそんなに怒っているの?」
「ひどいのよ、聞いて。昨日の夜ね…。って、あれ? 怒っていたことは覚えているけど、なんで怒ったのか忘れちゃった。とにかくあんなに怒ったんだから、お父さんは悪いことしたのよ」

短期記憶と長期記憶。動物にも当然あります。

さて、記憶力とは何か? 記憶には、「覚える」「保持する」「思い出す」この3つの要素が必要です。脳には次々と情報が大量に入ってきますが、その中で脳が重要と判断した情報だけを覚えて保持します。

そして、保持に関しても短期記憶と長期記憶があります。

短期記憶とは、一時的に覚える必要がある記憶のこと。SNSの一時的なパスワードなど、その時だけ覚えて、使用したら忘れるのが短期記憶です。

一方で長期記憶というのは、頭の中で何度も繰り返すことによって、長い時間保持される記憶。さらには、いつでも取り出せる状態になっています。自転車の乗り方、受験生なら基本の英単語や数学の公式などです。

もちろん人間以外の動物にも、短期記憶と長期記憶が存在します。ただし、我々にとって最も身近といえる動物の猫と犬とでは、その性質はだいぶ違うのです。まずは猫の記憶力から見ていきましょう。

猫の記憶力

猫は「しつけができない」「自分の名前を覚えない」「怒られた後に手をペロペロし、顔を洗うとすぐ忘れてしまう」など、記憶力が悪いイメージがあります。でも決して、そんなことはありません。

短期記憶にとっても優れており、10分以上は維持でき、10時間以上記憶できることもあります。人間の20倍も優れているともいわれているくらいです。

この短期記憶ですが、「危ない」「怖い」「嫌だ」などの負の感情を感じると、長期記憶となります。人間にいじめられたりした記憶はしっかりと、長期記憶として残ってしまいます。

しかも猫は、「楽しいこと」より「嫌なこと」が長期記憶になりやすいのです。本能的に「危ない」「怖い」と感じたことを長期記憶にすることにより、そこの場所に今後は近づかないなど危険回避をすることができるわけです。

そのせいで、僕が注射したり、爪を切ったりは「嫌なこと」として、猫には長期記憶となります。動物病院、とりわけ獣医師は猫に嫌われる運命にあるのです…。

僕の息子が中学生の時に我が家に、生まれて2か月の猫を連れてきました。ロン丸と名付けられたその猫は、息子が予備校を卒業するまでの5年間、息子がまるで母親になったかのようにせっせとお世話し一緒に過ごしかわいがりました。

それなのに息子が家を出て7年経った今では、息子がたまにウチに帰ってくると、お気に入りのクッションで寝ていたロン丸は、ピョンと飛び起きしっぽを丸めてベッドの下に隠れてしまいます。

楽しいことを長期記憶にすることは苦手なため、大好きな飼い主さんと過ごした楽しい思い出ですら、お互いに離れてしまったら2年ほどで記憶が薄れてしまうようです。

犬の記憶力

犬はしつけがしやすかったり、忠犬ハチ公や南極探検隊のタロとジロのように離れていても飼い主を決して忘れないなど、記憶力がいいイメージがあります。

そのイメージは間違っていないのですが、短期記憶よりも、物事を関連付けて記憶する長期記憶のほうが得意です。特にエピソード記憶に優れており、いつ・どこで・何があったかを、その時の感情とともにずっと覚えています。

猫の場合は「嫌なこと」のほうがよく覚えていますが、犬の場合は「楽しいこと」のほうが記憶に残ります。飼い主さんとの散歩、一緒に遊んだこと、海に行ったことなど楽しかったことは一生覚えていることがほとんどです。

一緒に過ごした飼い主の声や姿、匂いなどを、楽しかった出来事などと関連して覚えているので、何年間も離れ離れになっても、飼い主さんを一生忘れることはないのです。そしてそれがたった1回の経験でも、とっても楽しければ長期記憶となります。

しかし、とっても嫌な経験も1回の経験で長期記憶になることもあるのです。

ですから注射とかをする獣医師である僕は、犬からもやっぱり嫌われます…。しかし、楽しい経験のほうが記憶しやすいので、注射の後に優しい声をかける・思いっきり撫(な)でてあげる・抱っこしてあげるなど、病院でもできるだけ楽しくさせることで、嫌な経験に嬉しい経験の上書きをしてあげられるように日々頑張っています。

逆に短期記憶は、10秒ぐらいしか覚えることができません。そのためしつけの時は、ほめる時も怒る時も10秒以内にしないと、自分がしたことを忘れているので、なんでほめられているのかも、怒られているのかもわかりません。

また、お座りやお手、伏せなどのしつけは、上手にできた瞬間にほめ、それを繰り返すことにより、短期記憶を「楽しい出来事」と「繰り返し」という相乗効果で、長期記憶とさせます。しつけのポイントは、「ほめる」と「繰り返し」なのです。

妻の記憶力

妻は僕に対してだけは、猫と同じで怒りの感情が長期記憶になるようです。その上、エピソード記憶の「何があったか」は忘れてしまい、怒りの感情のみが記憶として残っているのです。

僕は「秋用のバッグ」を買ってあげることにより、妻の怒りの感情を「秋用のバッグが手に入った」という楽しい感情で上書きすることにしました。

対する僕ですが、小遣いが減るという、悲しい感情が長期記憶となりました。


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