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「僕の膝をツンツン」。物静かなマルチーズ「エリーちゃん」が唯一したあること

[ 獣医師が教える! 飼うのも動物園に行くのにも役立つ&楽しくなる動物の話 ]

夜10時、僕はお気に入りのイスで、濃いコーヒーとヤクルトをそれぞれの手に持ち、ラジオを聴きながら麻酔から醒(さ)めるのを待っていました。30分ほど前に、16才のミニチュアダックスのカナエちゃんの乳腺腫瘍(しゅよう)の手術を終えました。

入院中のワンちゃんネコちゃんたちは、入院室で寝ています。緊張から解放された僕のお腹が「ぐ~」となりました。家に帰ってから食べようか、近所のすき家で食べて帰ろうか考えていると、「トン、トン、トン」と足音がゆっくり僕に近づいてきました。

マルチーズの「エリーちゃん」が、レントゲン室から出てきたのです。僕の足下まで来ると、僕の膝(ひざ)を右前足でそっとツンツン。

エリーちゃんは、ほとんど僕のところに来ることはありません。たいていは他のワンちゃんが僕に甘えるのを、遠くから見ているだけ。

彼女はいつもレントゲン室のお気に入りの座布団で寝ています。日中は気配を消して、ひっそりとしています。診療が終わり、他の子たちが入院室に入って病院内の音がラジオだけになると、レントゲン室からひょこひょこと出てくるのです。

*******

最近は歩くのも遅く、転ぶことも多くなりました。この日はいつもよりいっそう遅いような…。

イスに座っている僕の足をツンツン。これは抱っこしての合図。僕はやせて骨ばった彼女の身体をそっと持ち上げ、膝にのせました。また軽くなったようだ。

頭の中に不安がよぎりました。膝の上の彼女は首を伸ばし、長い舌で僕の腕をそっと舐(な)めます。僕は、今日の出来事をエリーちゃんに話します。頭を撫(な)でてあげると膝の上で大福のように丸まり、いつの間にかウトウト。コーヒーを飲み終えた僕は、エリーちゃんを膝からそっとおろしました。

この時は珍しく、小さく消え入りそうな声で「ウワン」と鳴きました。普段はめったに声を出さないのに。そして、僕の膝をツンツンします。

僕は再び抱き上げて頭を撫で、すぐに床におろしました。エリーちゃんは、ゆっくりゆっくりと歩き出します。

爪が床に当たる「ポツ、ポツ」という足音がやけに大きく、診察室に響きました。彼女はレントゲン室に戻っていきました。

入院室を見に行くと、手術を終えたカナエちゃんが麻酔から醒め、元気に尻尾を振っていました。これでひと安心。僕は術着を脱ぎ、帰り支度をします。

バッグを背負い、レントゲン室に向かい「おやすみ!」。エリーちゃんは頭をあげ僕を見て、再び「ウワン、ウワン」。頭を撫でるために近づくと、僕の手を静かに舐めました。

*******

エリーちゃんは推定18歳。僕の病院に来たのは一昨年の冬。飼い主のお婆ちゃんが入院するということで、病院で預かることになりました。

エリーちゃん自身も体調が悪く、やせこけていました。栄養剤の点滴で彼女の状態はよくなりましたが、お婆ちゃんは退院の目途がつかないほど悪化していました。

病院に来て2か月が過ぎた頃、お婆ちゃんが一時退院したという話を聞き、僕はエリーちゃんを連れてお婆ちゃんに会いに行きました。

部屋に入ると、エリーちゃんはバッグから顔を出してキョロキョロと部屋を見回しました。そして、ベッドで寝ているお婆ちゃんを見つけました。

バッグから出してあげると、タッタッ…。軽快な足取りでお婆ちゃんに近寄り、ピョンとベッドに飛び乗り、お婆ちゃんの顔の横に座りました。

いつもはほとんど感情を出さない彼女ですが、すっかり毛が抜けてウインナーのようになった短い尻尾を精一杯フリフリしながら、お婆ちゃんの顔をペロペロと何度も舐めていました。

エリーちゃんもお婆ちゃんも、とっても嬉しそう。お婆ちゃんは優しい笑顔で掛布団から手を出し、頭を撫でます。エリーちゃんはお婆ちゃんに甘え続けました。

1時間ほどお婆ちゃんの家で過ごした後、僕はエリーちゃんを抱き上げバッグに入れました。「また来るから、早く元気になってね」。僕が言うと、声が出せないお婆ちゃんは、僕とエリーちゃんを見ながら手を合わせました。お婆ちゃんの目は、涙で光っていました。

翌日お婆ちゃんは亡くなりました。

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エリーちゃんは、お婆ちゃんの所へ保護犬としてやってきたのでした。いつ、どこで生まれたのか誰も知りません。お婆ちゃんの所に来る前も、飼い主さんが何人も変わったとのこと。千葉で生まれたという噂(うわさ)もあるようで、その後は東北で暮らしたこともあったそうです。

でも、やっとたどり着いた安住の場所だったお婆ちゃんも亡くなったため、僕が飼うことになりました。

エリーちゃんは決して声を出さない。他のワンちゃんに追いかけられても、吠えられても、隅に隠れるだけ。いつも静かに、誰にも迷惑をかけないようひっそりと過ごし、できるだけ存在を消しているようでした。

大好きな座布団に他のワンちゃんが座った時も怒るわけでもなく、部屋の隅の冷たく硬い床に丸まっていました。他のワンちゃんたちのように、もっともっと甘えればいいのに…。

次々に変わる飼い主の顔色を伺って暮らす状況の中、静かにしていること、できるだけ気配を消すことで、彼女は生きていく術(すべ)を身につけたのかもしれません。診療が終わった夜の、僕への前足ツンツンだけが彼女の精一杯の甘えでした。

翌朝、寝坊をした僕に看護師さんから一本の電話が入りました。「先生 エリーちゃんが…」。僕は慌てて病院に行きました。

エリーちゃんはお気に入りの座布団の上で、いつも通り丸くなっていました。そして、眠ったまま二度と頭を上げることはありませんでした。

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数奇な運命を送ったエリーちゃん。病院での生活はどうだったのだろう?

エリーちゃんが亡くなって2週間程が経った頃、
「あれ、エリーちゃんは?」
「この服、エリーちゃんに似合うかと思って持ってきたんだけど、エリーちゃんいないの?」
たくさんの患者さんに尋ねられました。
僕が思っていた以上に、エリーちゃんは皆に愛されていたようでした。

今日もたくさんの犬が僕の足元でじゃれて甘えています。夜に手術を終えた後、コーヒーを飲んでいました。
トントントントン。足音が聞こえたような…。

エリー? あの遠慮がちなツンツンが無性に懐かしくなります。


子供の頃から生き物が大好き。
“蟻の飼育”から始まり“象の治療”まで、たくさんの生き物と接してきました。そんな経験から生き物の不思議を発信します。
北澤功さんの紹介ページは→こちら

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