とことんやるけど、努力は大嫌い!アート活動28年、今も全力で走り続ける理由とは?

「どんな条件の人でもアートを楽しめる場所でありたい」「人として生きるのに必要な活動をすべてアートと捉えている」。今年4月にオープンしたバリアフリーのアート・カフェ「のっぱらかふぇ」オーナー、アートセラピスト加藤里子(かとう・さとこ)さんの言葉です。「アートセラピー(芸術療法)」とは一般に「言葉では表せないような心の深い部分をアートで表現することで、心を解放し本来のバランスを取り戻す心理療法の総称」で、アートセラピストはその専門家です。

30代はじめに絵画教室を開いて今年で28年。一昨年には「株式会社ひとは」を立ち上げ、障がいのある方たちに自己表現としての手仕事を提供する事業所「手仕事工房 のっぱらの扉」を開業。障がいのあるなしに関わらず「個性を大事にした生き方を選択できる社会でありたい」と活動を続けています。今も全力で走り続ける彼女の原動力はいったい何なのか? 彼女が考えるアート、自己表現、セラピーとはどのようなものか? 水戸にあるカフェに伺い話を聴きました。

「命あるもの全てが心の表現者」

私にとって「命あるものの活動はすべてがセラピー」なんです。人が生きるという行為自体をアートセラピーと捉えています。なぜならすべての活動に、すべての表現に意味があるから。料理を作ること、誰かと対話する時に発する言葉、何気ない行動もその人の深層心理だから全部つながっているはずなんです。「ここからがアートでここからはアートじゃない」と分けられるものではないですね。生きていることが、自己表現自体がアートだと考えています。 

運営する「自由空間 あとりえ”ず~む”」「のっぱらかふぇ」「人として生きるのに必要な活動を全てアートと捉え、その人が自分らしくいられる空間でありたい」と思います。

自分らしくいられない人が多いのはなぜでしょうね。「自分らしさ」に制限を加えている。「らしさ」というのを自分で誤解している場合もあるし、気づいていても「らしさ」を出すことが怖い、「らしさ」があると集団から外れるんじゃないかと感じる、そんな人も多いと思います。自分らしくいられない理由は、社会の仕組みなのかな。でも、制限を加えているのは「自分自身」なんですよね。

自分を知ることですごく楽になりますが、自分を知るためには、自分を表に出すことが必要です。ふだんは外から自分を見ることができないからです。「アート」が必要なのはそういう理由ですね。自分をそこに置いて、ちょっと離れて自分を見る。自分を客観的に見つめさせてくれますよね、アートって。

「上手に描く絵画教室」から「心を表現するアトリエへ」

(「あとりえ“ず〜む”」では子どもたちが自由に表現しています)

結婚して3人の子育てをしていた28年前、自宅のリビングで子どもたちのための「絵画教室」を開きました。当初は上手に絵を描くための教室で、自由な表現のためのアトリエに変わるのには大きなきっかけがありました。

絵画教室を開いて2, 3年経った頃のことです。教室に通っていた男の子のおじいさんが、鉄工所にお勤めだったのですが、鉄板の下敷きになって亡くなるという悲しい事故がありました。一緒に住んでいた家族が亡くなり、男の子はお葬式の日はもちろん、一週間から10日くらいは教室に来られないと思っていました。ところが、お葬式の翌日に男の子が来たんです。お母さんは黒い服のままで「この子が絵画教室にどうしても行きたいと言うので連れて来ました」と。

男の子は、チューブから赤と黒の絵の具を出して手のひらいっぱいに塗り、画用紙にペタペタと色を着け始めました。絵の描き方に「ハンドペインティング」という方法がありますが、「これをやらずには居られない」という表現をしたんです。その子は絵が上手だったし、それまでハンドペインティングをやったこともないし、私が教えた訳でもないのに。いきなりそういう表現をしたんです。

「ああ、この子にとってこれが、今やらなくちゃいけない表現だったんだ」と感じました。子どもの心って表現することで安心したり、納得したり。そういうことがあるのかと気づいたんです。

私は、気づくとすぐに行動する人間です。あらゆるところにアンテナを張って「アートと心の表現」ってどこかに出ていないだろうかと探していた時、新聞の片隅の「“子どもの心の表現のためのアートセラピー” をベースにした教室を開いている」という小さな記事が目に留まりました。「これだ!」と思い、すぐ電話をしました。「どこでその手法を学ばれたんですか」と聞いて「色彩学校」と知り、即入学。学びながら絵画教室を続けました。

みな絵が上手になりたくて来ているし「アートセラピー」という言葉も知られていません。だから「上手になるために色を使って遊んでみよう」という名目で「自由な色遊び」の時間をつくったり工夫していました。

「バリアフリーのアトリエをつくる」と宣言して

そうして教室を続けていると「障がいはあるけれど絵が好きなんですよ」というお子さんが来るようになりました。もちろん障がいを理由に断るつもりは無かったので、障がいのある子どもたちや、学校に馴染めない子どもたちを受け入れているうちに「あそこの教室はどんな条件の子でも見てくれるらしいよ」という話が広まって。自宅のリビングで教室を開いていた頃は、生徒さんが40人程いたんですが10名くらい障がいのある子どもたちが通っていました。

その後夫と別居、離婚しましたが、賃貸アパートの2階で教室を続けました。車いすで通う女の子がいて、毎回お母さんがおんぶして2階まで上がるのですが、ある日アパートの前に停めていたワゴン車が邪魔だと、近所の人が怒鳴り込んできたんです。お母さんと私は土下座して謝ったんですが許してもらえず、お母さんは私に申し訳ないと泣いて謝って。

それをきっかけに、私は「バリアフリーのアトリエをつくる!」と宣言しました。次の日から土地を探し、銀行に4千万円の借金をして、1年後には一軒家のアトリエを建て「自由空間 あとりえ”ず~む”」を開きました。市をまたいでの移転だったけれど、100名近くいた会員さんのほとんどが辞めずに新しいアトリエに通ってくれたんです。私にとっても「自分のスペース」を持てたことは自分の表現であり、心の安定にも繋がりました。

(「あとりえ”ず〜む”」の窓に掛けられたカーテンはみんなで染めたもの)

やると決めたらとことんやる

私、やると決めたら、とことんやるんです。40代ではこんなことがありました。高校生の長女が部活動で「ダイビング」をしていたのですが、大会で優勝するなど成績優秀で、男子生徒に交じって様々なイベントにも参加し頑張っていました。でもある時、肉体的にも精神的にも限界にきていたのか「ダイビングはもうできない、やめる」と言ったんです。

その時に私は「だったら私がダイビングをやる」と宣言しました。娘に自分の後ろ姿を見せたいと思ったからです。幅広い年代が出場できる地区大会に出るために、長女の部活のコーチにお願いし特訓開始です。41, 42歳の私が高校生と一緒に走ったり泳いだりして。「一番ビリになった人はあと三周!」とか言われて、ビリになりたくないから高校生男子と一緒にすごい気合で泳いでね。高校生に追いつくために、みなが帰っても夜まで残って泳いでいました。 

「ダイビングの大会に出る」と決めた時、コーチに「出るからにはメダルを取ります」と言って一年間特訓を受けたんです。腹筋に割れ目が入るほどのすごいシェイプになりましたよ。娘が出場していたのは、ダイビングの種目中でも泳ぎの速さを競う「フリッパー」という競技。いかに長く速く泳げるかという体力勝負の「400mフリッパー」に、私もエントリーしました。運動は本来苦手なのに、決めたらとことんやる。そうして大会で本当に「金メダル」を取ったんです

決めたらやり抜く。ただ「自分が目立ちたい」というのが動機ではないんです。私以外の「誰かがそれを求めている時」や、私が成し遂げることで「誰かが精神的な安定を得られると分かっている時」に限り「発動」する感じです。 

(「のっぱらかふぇ」のキッチンで)

ダイビングの場合は、娘に「諦めない」ということを言葉ではなく自分の態度で見せたい、可能性は無限にあると知らせたい。その気持ちが私を動かしました。ただ、その時の私は若くて気づかなかったけれど、娘にはそれが負担だったんじゃないかって今は思います。今の私は無理はしないけれど「子どもたち3人に生き方を見せたい」、それが原動力になっているのは確かです。

でも、「努力」は大嫌い

今日やり残したことがないかと毎日考えます。「運」は自分で掴むもので、望んだものを引き寄せられるかどうかは、日々何をしているかの結果だから。5年間指をくわえて待っていたら、5年経っても何も来ない。一度に1mも2mも飛べなくて一日に進めるのは2cmだとしても、毎日自分の中で何かしら変化のあることを続けて。今日ほんの少しでも前に進めば、5年後にはみんなに見えるくらい遠くまで歩いているはずです。 

「雨垂れ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)」ということわざが、小学3年生の頃から大好きで。毎日の積み重ねがその石を掘っていく、雨水にもそういう力があるという、この言葉が好きでした。でも「努力」という言葉が大嫌いでした「自然」であって欲しいんです。雨垂れのように毎日それをすることが自然で、無理はしていないけれど続けたらそうなった。そこにすごく惹かれたんです。

それでいて手を抜くところは、めちゃめちゃ手抜きだったんです。「絶対やらないこと」と「やること」の落差が激しい小学生でした。職員室で先生一人ひとりに「演劇部をつくりたいんですけど顧問になってもらえませんか?」と打診して、演劇部を立ち上げたんです。そんなやる気を見せたかと思うと、体育の持久走大会では「歩いて」いましたから。先生から「加藤、なんで歩いているんだ!」と言われて、「えっ、歩いているってどういうことですか? ” 歩く” と “走る” って、どの辺のスピードで分かれるんですか?」と答えたことを覚えています。自分の気持ちに嘘をつけないというのかな。やりたいことは一心不乱にやるけれど、やりたくないことは本当に手抜き。大人に怒られない理由を考え主張して、堂々とやらなかったんです。

「勘」に逆らわずに生きている

大人になるにつれ、さすがに「やりたいこと」だけをやってきた訳ではなく紆余曲折がありました。でも今は自分の「感性」に正直に生きていると思います。感性って「勘」とも言えるかな。この時そうすべきと「感じる」、その感覚に逆らわないですね。

「やりたい」という気持ちを感じられない人は多いのかもしれませんが、私の「勘」はアートセラピーで培ってきたものです。色やアートによる表現をしてきた結果、自分が心地いい、悪いという感覚が瞬時にわかる。すごく奥の方の本能的な部分で仕分けられる。そういう感性がアートで研ぎ澄まされました。「深いところの脳」が動く感じかな。だから、ほぼ間違えないですね、自分が欲していることに素直に向かえている気がします。 

(「のっぱらかふぇ」の壁は里子さんが描いた絵に彩られています)

昔は、やりたいと思ったのにやってみたら苦しかったことが、度々ありました。これがいいと思って、しばらく進んだところでやっぱり無理だと気づくのは、「頭」で考えていたからでしょうか。正直な気持ちに気づけるようになったのは、年齢を重ねたこともひとつの理由だけれど、大きな理由は、アートを通して自分の心に向き合ってきたからだと思います。

「生きづらさ」はひと晩で解消する

カフェに出入りしてくださっている方々に「ここのスペースがどうのっていうより、里子さんがアートだからさ」とよく言われます。

私も「生きやすい」ばかりではないけれど、「生きづらい」と感じる時間は持続しないんです。一瞬苦しくなることも、「なんでこんなことを始めちゃったのかな」と思うこともあります。でもその苦しさが続かないんです。大抵の場合1,2時間で転換します。長くてもひと晩かな。寝る時に「苦しい、もう嫌だ、私明日死ぬかも」と思っても、朝になって太陽の光を浴びると「今日を大事にしなくちゃ」と気持ちが変わります。「目が覚めたことが奇跡だ」と思い直すんです。朝早く起きて散歩をすると、竹林がざわざわと音を立てている。それを聞いているだけで「自分はちっちゃい存在。地球は私が居ても居なくても在るし」と思えるから、私が苦しくなる理由も分からなくなってきます。 

たかだか60年、70年・・・90年生きるかもしれないけれど、骨になっちゃったら「あの人苦しかったみたい、かわいそう」なんて誰も思わないでしょう。だったら「すごく幸せそうな人だったよね」と言ってもらって、みながいい思い出として残してくれる方が嬉しいです。 

(「のっぱらかふぇ」にはリラックスできるスペースもあります)

「きれいごと」を提供するカフェでありたい

最近、雑誌や新聞で取り上げられたり、テレビからオファーをもらったり、ありがたいなって思います。実際はそんな風にスポットライトを浴びている部分より、日々の地道な活動の部分の方が圧倒的に大きいです。現場で働いていたら素敵なところばかりじゃない。それを考えた時に、社長として「踊らされて、いい気になっていないか」と自問自答することもありました。

でも、これでいいって気づきました。ある意味「きれいごと」として発信してくれる人がいて、それを見て「まぁ素敵な場所があるのね」と思ってくれる人がいて。憧れを持ったり、やりたいと思ったり、「きれいごと」の世界の中で夢を見る人は必ずいるはずです。その夢がその人をやる気にさせるのであれば、私は「きれいごと」が嘘ではないと思います。

「きれいごと」という言葉が好きなんです。「東京の有名なお寿司屋さんで、板さんが完璧なまでのおもてなしをする店がある」とテレビで紹介されているのを観ました。「お客さまはね、日常を買いに来ているんじゃない。ここにきれいごとを見にきている、きれいごとを食べにきている。だからプロの板前として完璧な ”きれいごと” を提供するべきだ」って。すごく感銘を受けたんです。

(「のっぱらかふぇ」で)

非日常の場所で美味しいものを食べて、こういう空間にまた来たいと思う。アートの場合も、ワークをして癒されて「明日からがんばろう」と思えるのは、特別な空間だから。プロとして「きれいごと」を提供するのは大事な役目です。もちろん、家で毎日食べる「きれいごとじゃないご飯」も「特別な食事」もどちらも大事です。アートも一緒で、毎日ひとりでするアートも、素敵な空間で特別に提供されるアートも必要で、その時々で選べたらいいですね。

社長として大切なのは「ワクワク」を提案しつづけること

会社で新しい取り組みが始まりました。「染色のズボンをオリジナルブランドで発売しませんか」という話が舞い込んできたんです。まず、私の知り合いにSからLLまで各サイズの白いズボンを縫ってもらいました。来週「染め」の工程に入ります。社員さんも私も「ズボンを染める」という取り組みが形として見えると、ワクワクしてきて。息子が買って会社に寄付してくれた150万円の刺繍ミシン、コンピューターでモチーフを読み込ませると絵画のように「ヒュー」って刺繡に表現してくれるミシンが来週届くので、使い方の研修を受けます。ワクワクが目の前にあると前向きになりますね。

「夢」を見る材料を絶やすことなく提供できれば、社員のモチベーションを保つことができると思います。それは社長として大切なこと。「大変だな」ではなく「やってみたい」と感じる提案を続けることが、会社を安定させる、新たな仕事につながる、楽しく働ける、全ての源になるからです。心を柔軟にして新しいことを受け入れ、提案していくことが社長としての役割ですね。それは「娘に後ろ姿を見せたい」と思ったときの感覚と似ているかもしれません。社長が楽しむ、夢を持ち信じるという確固たる態度を見せ続けたいんです。

まぁ私、きっと本当の起業家ではないから。起業家って私のイメージでは、バンバン周りに営業を掛けて、お金の采配(さいはい)もちゃんとできて、社員さんに「これをやりなさい」みたいなことがスパッと言える人ですね。かっこいいなと思うんですけど、私にはどうあがいてもできないから。

「夢をかたちに」を応援したい

アトリエをつくった時に「夢をかたちに」という副題を付けたんです。「夢をかたちに あとりえ”ず~む“」って。この言葉を付けたことに最近すごく納得しました。そこに行きつくのだと思います。当時も今も「誰の夢」ということはなく、すべての人の夢をかたちにする会社、それが理想ですね。

(今年2月に「あとりえ”ず〜む”」で開催されたキャンドルナイトの様子)

カフェにも、単発で来る方、毎日遊びに来る方、さまざまな方がいます。一回でもここに来たその時、ここで見られる夢がある。それが実現したら、その日その人の夢が叶ったことになる。毎日来て楽しんで、それが自分の生活に大事だと思ってくれるなら、その人の夢に協力していると思えます。10分でも一生でも、できる範囲で関わる。「夢をかたちに」というのは決して重いものでなく、その人が求めるものに添うということです。

先日カフェにいらした方が「いいなぁ、このコーヒーの味とこのケーキ。で、この景色だろ。この値段は安いよ」と、代金を多く置いていかれたんです。「自分にとってこの時間がすごく大事で、それを払うに値する空間だった」「俺また来る」と言ってくれました。役者さんだったんですけど、結局9月にうちでイベントを開いてくれることになりました。小一時間ぐらいの滞在だったけれど、自分の中でイメージが広がったんですって。

(「のっぱらかふぇ」の窓の外には緑が広がります)

私が提供したのは「空間とコーヒーとケーキ」だけ。それが彼のアート表現を広げたから、アート支援ですね。一方、ものを作るワークショップでは具体的に提案します。頭の中にまだ発想がない場合は、提案が役立つと思うから。どちらにも対応できる多様性のあるスペースでありたいです。カフェでもアトリエでも、ある人にとって必要なものが、別の人とは真逆のことがあります。私の方で「こういうスペースだから、こういう人に来てほしい」と制限するのではなく「来た人がこのスペースで見る夢」にできる限り添うのがベストです。

だから、いつもぐちゃぐちゃ。あらゆることがウェルカムだから。「このカフェのイメージでハワイアンはないよね」と思う人がいても、私はハワイアンもオッケーです。焼きそばとか立ち食いうどんも有っていい。今度キッチンカーを持っている人に入ってもらい、イベントをやろうと考えています。これもアリ、あれもアリの会社にしてしまったらどうだろう、やってみたいな。会社らしくないかな、ぐちゃぐちゃで。でも「アート支援」の会社ですから。「アート=生きること」で、すべての活動を支援したいから、いろいろなものが入ってくるんです。

アート支援を「すべての方」へ

(「のっぱらかふぇ」ではコンサートも開かれています)

すべての人のアート支援をしたいです。目の不自由な方に絵画を鑑賞してもらう、耳の不自由な方に音楽を鑑賞してもらうことも企画しています。目の見えない方も作品の前に立った時に「自分なりの紫、自分なりのピンク」を感じるそうです。耳の聞こえない方も音楽に触れた時に「波長を感じてワクワクする」と教えてくれました。その言葉を聴いた時、私までワクワクしました。その方はデザイナーをしていて、生まれつき耳が聞こえないそうですが「自分のデザインの原点に音楽がある」と言って。

だから堂々と言えます、「すべての人にアートを」って。以前500人程の聴衆の前で「音楽の手話コンサート」を開きました。手話通訳者の方が「メロディを手話に乗せて」伝えてくれたんです、素敵でしょ!

余りにもやりたいことが多すぎて「あと20年の間にどれだけアートを広げられるか」と考えたら、のんびりしてなんかいられません。すべての結果を自分の目で見られるとは思っていないし、次の世代に繋いでいきたいです。でも、ある程度の成果を自分で体感してから死にたいな。

「カフェ」は未来へ手渡すもの

小学6年生の頃、「将来なりたいものは?」と聞かれて「歴史上に残る人」と答えたんです。なぜそんなことを言ったのか後から気づきました。私すごく臆病で、めちゃめちゃ死ぬことが怖かったから「死なない方法」を考えたんです。1度目の死は「肉体の死」だけれど、2度目の死は「その人が忘れ去られること」って。ませた子どもでしょ、そう思っていました。「2度目の死を迎えないためには、歴史に名を遺すしかない」とは、臆病だったからこそ出た言葉ですね。もう死ぬことなんて考えたら息が苦しくて夜眠れなくなりました。その打開策を見つけたくなるのが私の特徴。苦しいだけは嫌なんです、安心したいの。 

(「のっぱらの扉」で制作された作品は「のっぱらかふぇ」でも展示、販売されています)

「自由空間 あとりえ“ず〜む”」を建てた時には「自分のスペース」をつくったと感じたけれど、「のっぱらかふぇ」は、自分のものではなく「未来につなぐもの」だと感じています。小学生の時になりたいと思った「歴史に名を遺す人」につながるのかもしれないですね。未来へ残すメッセージとして。意志を継いでくれる、アートを広げてくれる次の世代へ、いつかバトンを渡したいです。

*******
窓の外に緑が広がる心地よい空間でのインタビュー。「自分の中で日々2cm進めば、5年後にはみんなに見えるほど遠くまで歩いている」。自分の心に正直に進み続ければ、思いは必ず形になる。それを実践してきた里子さんの言葉には重みがあります。すぐに成果が見えないとくじけそうになるけれど、感じるものを大事にしながら自分の歩幅で一歩ずつ前に進めばいいのだと、背中を押していただいた気がします。そして「すべての人にアートを」って、とても素敵ですね。貴重なお話をありがとうございました。

株式会社 ひとは ホームページ
https://hitoha.art/

株式会社 ひとは 自由空間あとりえず~む インスタグラム
https://www.instagram.com/atelier_zoom/

(文責:佑貴つばさ)


本記事は「作家たちの電脳書斎デジタルデン」編集部作成、2022年7月26日掲載記事を転載したものです。内容・状況などは記事作成当時のまま掲載しています。

関連記事